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第112号(平成30年7月)西日本豪雨

[2018年7月12日]

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執務中の町長

阿久比町長 竹内 啓二 

西日本豪雨

皆さんこんにちは。

梅雨の湿った空気が、衣類の繊維一本一本まで浸透し、湿気にまとわりつかれる日々を過ごしていた時期に、西日本や岐阜県などの記録的な豪雨は、私達を震撼(しんかん)させました。そして河川の氾濫と土砂崩れが至る所で発生し、多くの死者と行方不明者を出しました。行方不明者の早期発見と無事をお祈り申し上げますとともに、大切な人を亡くされた方々に心よりお悔やみ申し上げます、

まちのほとんどが浸水し、道路や橋などインフラの寸断、家屋の崩壊や、自家用車・家財の流出など、未曽有の大災害となりました。ライフラインがここまで破壊されてしまうことを誰が予測できたでしょうか。とは言え「天災」の二文字で済ませてしまうことはできません。まずはこの状況から脱するために我々は全力を挙げねばなりません。命の救済を第一に置き、避難生活をされている方の健康面や衛生面など、これからは対処の仕方とスピードが肝心です。

私はニュースを見ていて、昭和49年・51年に本町を襲った豪雨を思い出しました。わが家も浸水は2階にまで達し、ボートで救助された時に見た光景は、今テレビで放映されている映像そのものでした。大学生だった私は、水没していく工場で製品を守ろうと必死でした。被災中は不思議なことに恐怖も痛みも感じません。それらは数日後の避難生活している夜に襲ってきました。これからどうしたらいいのか?どんな生活になるのか?大学は?会社は?従業員は?半身不随の母は?初めて奥歯がかみ合わない経験を味わいました。

今思うとこの苦しみから抜け出させてくれたのは父でした。畳が流された床板の上に毛布を敷いて寝ようとしていた時、泥まみれの何かを洗っていた父がいきなり毛布の上にバケツの泥水をぶちまけたのです。「狂ったか」と真に思いました。その形相は今でも忘れることができません。そのまま奥に消えた父が次に現れた時、黒い手提げ金庫を持っていました。私に座れと言うなり「やめた。何も言わん。俺は隠居する。印鑑と小切手帳を渡すから会社も好きにすればいい。生きていけ」。それまで親の脛(すね)を齧(かじ)ってきた私にとっては青天の霹靂(へきれき)そのものでした。最後の「生きていけ」の一言は実に重い言葉でした。「無責任な」と心で思いながらも口には出せませんでした。明治生まれのプライドの高い父が、工場を失い、畳も襖も障子も家財も無くし、屋根と柱と崩れた泥壁だけが残った家しか息子に渡すことができなかったことの無念さを感じたからでした。

父の気持ちを思った時に、自分の新たな人生が始動しました。工場を継ぐことに腹を決め、図面を引き始めました。銀行も問屋も織物組合へも通いました。学生と経営者の二足のわらじを履きながらの生活でしたが、多くの方に助けていただいたことを今でも感謝しています。あの時、父がバケツをぶちまけていなかったら悶々(もんもん)とした気持ちで学校へ通い、苦労から逃げ出し、家からも飛び出していたかもしれません。そして自分自身からも逃げ出し、天災や行政や社会の所為(せい)にして人生を過ごしてきたかもしれません。

父の気持ちを考えた時に自分の人生が動き出したこの経験は、以後の私の生き方を変えました。どんなに苦しくとも辛くとも怒れる時でさえ「相手の気持ちを一度は考えてみる」という習慣です。そうすることで心にわずかな空間が生まれ、気持ちが楽になることを知ったからです。そして今では「必ず好転し始める」と信じています。

わが家の復旧する時には一匹の犬が私に勇気を与えてくれました。このような時に動物は自分で生きようと本能が覚醒するのか意気消沈などしていません。夏の日差しと埃で真っ黒になった私の体は、この時まさに野性児のようでした。 

全国で多くの方が犠牲になられ、家も財産も無くし希望も持てない日々でしょうが、必ず好転します。ほんのわずかでいいので、どうか心に余裕を持ってください。私たちも応援していきます。一日も早く普段の生活に戻られることをお祈り申し上げます。

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