ページの先頭です

第77号(平成27年8月)イタリア紀行

[2015年9月2日]

ソーシャルサイトへのリンクは別ウィンドウで開きます

執務中の町長

阿久比町長 竹内 啓二 

イタリア紀行

皆さんこんにちは。お盆が過ぎたとはいえ残暑も続き、これからは夏の疲れも出てきますのでお体には十分注意なさってください。

8月の「町長室だより」が遅れて申し訳ありませんでした。8月1日から7日まで愛知県知事に随行して「ミラノ万博」の「あいち・なごやフェア」に出かけていました。帰国後は公務スケジュールに追われていましたので、原稿を書く余裕がなく遅れてしまいました。

今回は、愛知県町村会海外行政調査ベニス・ミラノ・トリノについて報告いたします。

7月31日

宮津団地の盆おどりから帰宅したのが午後10時。それからトランクに視察資料・パスポート・財布・常備薬・着替えを詰め込み準備完了。眠りについた時には、8月1日になっていた。いつものように出張前日の夜はなかなか眠れず、体調のことを思えば思うほど寝返りの回数が増えてしまう。今回は2日前から夏風邪をひき、その日の体温も38度を超えていたので、空港の体温チェックにかかり入国できないことになりはしないかと、心配が頭をよぎりいつも以上に寝付けなかった。

8月1日 (快晴)

飛行機から臨むセントレア上空

飛行機から臨むセントレア上空

午前7時30分に迎えが来ることになっていたので、もう一度パスポートと財布と携帯電話を確認した。そして庭へ出てメダカにいつも以上の餌をやり、しみじみと家を眺めた。

国土を離れるということはこういうことなのかもしれない。無事に帰ってこられると当然思ってはいるものの、目に映る我が家を記憶に留めようとしているかのように、しみじみと眺める自分に気づかされた。

天気は晴朗。

ご先祖様に手を合わせてから出発した。車に乗り込み職員の顔を見た途端、頭の中は仕事モードに切り替わった。今日はプレミアム商品券の発売初日。阿久比町は今回の業務を他団体へ委託せず職員が責任を持って対応することにした。会場にはすでに長蛇の列ができているとのことだった。何回も会議を重ねいろいろな想定を議論してきたが、やはり心配であった。できる限りの公平性を確保するよう努力はしたものの、購入できない人があれば不平は出るであろう。しかし事故だけはおこさないように祈るばかりだった。空港から発売所担当の課長に電話をして混乱していないか確認したが、想定内とのことであり安心した。

セントレアの駐車場は満車に近い状態だった。夏休みで、家族で出かけているのであろう。フィンランド航空カウンターでチェックイン後、1ユーロ=140円のレートで換金。特別待合室で説明を聞き出国手続きに入ったが、ここで事件が発生した。

パスポートを開くと、写真が奥さん。 ん! 間違えて家内のパスポートを持参していたのだ。あわてて連絡し空港へ走らせた。ただ間に合うかどうか。

ここで読者の皆さんは「ん?」と思われたでしょう。阿久比町からなら20分あれば届けられるはずだ。慌てることはない。しかし、奥三河の町長さんのパスポートだったから大変だ。搭乗時間は迫るし、ご本人の心中いかばかりであったであろうか。

FIN  AY80便の席に着き待っていると、例の町長さんが乗り込んできた。他の町長さん方も安堵した。このフライトには前愛知県神田知事の一行も搭乗しており久しぶりに元気なお姿を拝見できた。セントレアを飛び立ったジェット機はフィンランドのヘルシンキをめざし10時間の飛行に入った。機内食などを済ませて外を見ればシベリア大陸の上空を飛行中であった。小さな窓から見える景色は地球を感じ取れる雄大なものであった。地平と空の境界あたりの空気の色合いのグラデーションや、眼下の白い雲、その下に見える緑の森林、ところどころに見える人の手の入った人工物。空から眺めている私をゆったりと広い気持ちにさせてくれるものだった。

ヘルシンキへ到着し入国審査でかなり厳しいチェックを受けた。もともとEU設立の目的が加盟国間の人々を自由に行き来させることであったから、EU圏外の外人が最初に圏内に入国する時のチェックは強化されて当然である。

2時間ほどの乗り継ぎ時間を空港で過ごしてから、AY771便でベニステッセラ空港へ向かった。機体が小さなせいか少し揺れたが、2時間55分後には無事イタリアの土を踏むことができた。

パスポートの提示もなく入国は簡単であった。荷物を受け取り、早速腕の竜頭を7時間戻した。船でヴェネチア本島へ渡ったが、海上に浮かぶヴェネチア(ベニスのラテン語読み)は、美しいレンガ造りが建ち並び、15年前に訪れた時と何一つ変わっていない。「アドリア海の真珠」の名にふさわしい綺麗な街だった。おそらくこの街並みは、住民の意思で守られ続けてきたもので、千年前の繁栄当時と変わっていないであろうし、このこと自体がイタリアの文化であり、風土であると思う。

私は好きである。

今回の行政調査はミラノ万博がメインではあるが、私としては商業貿易都市で黄金期を築いたヴェネチアの歴史・文化を知りたかった。また今では年間310万人という観光客を受け入れる観光都市でありながら、島の人口は6万人を切って、減少に歯止めがかかっていない現実や、水没の危機にあるこの町の潮位監視予報センターの整備、「モーゼ計画」(可動式防潮堤をアドリア海に建設している)防災体制の現場を視察できることなど、実に関心があった。

 

年代ものの小さなホテルに着いた。大理石やニス塗りの無垢板をふんだんに使用した落ち着いた造りで、狭くはあったが水回りは新しく清潔であった。

こちらでのミネラル水はノンガスと炭酸水があるので注意が必要であった。ただし両方とも単価は高く、4ユーロ(560円)、缶ビールは5ユーロ(700円)であった。ワインが安く、白ワインなどは水代わりに飲んでいるようであった。

海上から見るヴェネチアの街並み

海上から見るヴェネチアの街並み

ヴェネチアの水路

ヴェネチアの水路

8月2日(晴れ)

朝食後、潮位監視予報センターへ徒歩で向かう。ヴェネチア島では、自動車は一台も見かけない。自転車も走っていないので交通事故は起こらないのである。カナル・グランデという大運河が島の中央をSの字に走り、支線の水路が縦横に入り組んでおり橋が多い。また、人がすれ違えば肩が当たりそうなほど石畳の道は狭い。自動車が発明されてから200年間、この島の住民は道の拡幅を含め再開発を考えなかったのであろうか。いくら水路が発達し海上タクシーがあるとはいうものの貨物の輸送など、生活の不便さは相当のものだと思えるのだが・・・。

監視センターでは、パーパさんという男性が迎えてくれた。彼がこの島を守っているのだ。アドリア海へ低気圧が近づくと潮位が上昇し始め、「シロッコ」という東南の風が吹くと、サンマルコ広場から浸水が始まるので、その前に各行政機関と市民に警報を出して知らせるのである。ヴェネチアの地盤沈下の原因は、対岸の本土での工場地下水の汲み揚げで、水防対策では対処しきれない事態になっている。

私も何回か洪水の被害を経験しているので質問をしてみた。洪水になって困るのは、第一に電気である。感電と停電である。その対処の仕方を尋ねると、建物のコンセントの取り付け位置が1メートル(?)より上でなければならない取り決めがあるようで、屋内への浸水が前提の上での決め事である。この考え方は、日本では受けいれられないであろう。「行政が水防対策で対処し住民の生活、生命財産を守るべし」となるのである。

こちらの行政では災害の情報を正しく早く知らせることが重要であり、住民は自分の意思と行動で自らを守るべく備えなければならない。この考え方はある意味正しいと感じた。我々日本人は、防災に限らず、子育てにせよ、高齢者介護にせよ、自の努力によって対処することを疎かにして他人を頼りすぎてはいないだろうか。自助、共助、公助について一考することとなった。

次の視察先、アルセナール(造船所)へ船で渡った。日差しは強く眩しかったが、まさに西洋の油絵の風景画の中を船が進んでいるようであった。陽の光が日本とは違うのだ。鮮やかな色が目に飛び込んでくる。今から向かうところは、過去に軍船や商船を造っていた工廠である。現在この場所で、ヴェネチアを高潮「アックア・アルタ」から守るための、可動式防潮堤を造っているのである。

この「モーゼ計画」は国家プロジェクトといえる大計画で、海底に沈めた防潮堤を、高潮時に浮きあがらせるもので、わかりやすく言えば巨大潜水艦が海底から浮かび上がってくると思えばよい。鉄の箱が海底に沈められており、高潮時に空気を送り込んで浮上させて防潮堤とするものである。美しいアドリア海の風景を防潮堤で台無しにしないための配慮である。予算は莫大なものであろうが世界遺産はこうして守られていくのである。来年には完成予定である。

またも船に乗り、ヴェネチアングラスで有名なムラーノ島へ向かい、ガラス工房を見学した。古いレンガ造りの建物の中で職人が実演をしてくれた。見事な手さばきで馬の置物を20分ほどで完成させた。幼いころ水あめ細工を縁日で見たが、よく似ている。溶かした柔らかなガラスが固まる前にコテとハサミを巧みに使い造形していくのである。お土産にと思ったが、かなり高価なもので手がでなかった。早々に退散し、サンマルコ寺院とドゥカーレ宮殿の見学へとまたまた、船に乗りこんだ。

カンツオーネを歌うゴンドラとすれ違いながら運河を巡り、12世紀から17世紀のレンガ造りの建築群が並ぶ街並みを見学。貿易により地中海の富を集めた全盛期の栄華を今なお伝えていた。サンマルコ広場は、観光客で大変な賑わいであった。

「大理石造りのサロン」と呼ばれるこの広場は、回廊によって取り囲まれ正面にサンマルコ寺院、運河側にドゥカーレ宮殿が「富と権力」の象徴のように築かれている。

 

サンマルコ寺院はロマネスク・ビザンチン建築の傑作で、聖人マルコの遺体が祀られている。寺院はさまざまな大理石で建てられているが、金色に輝くモザイクが施されており、ビザンチン文化など東方の影響を色濃く受けたものであった。

「翼を持つ獅子」の像が、いたるところから私たちを見下ろしているが、これはヴェネチアの権威のシンボルである。聖マルコと関係があるらしい。内部は、大理石の円柱が立ち並び、モザイクによってキリストの生涯が描かれている。この精緻な金銀ガラス工芸のモザイクの技が受け継がれ、現在のヴェネチアガラスの産業を支えている。

この立派な寺院の玄関には高さ50センチほどの踏み台が積まれている。大理石で造られた寺院は重量も重く、地盤沈下が一番ひどいため浸水が始まると、この踏み台を並べてその上を通行するのである。(観光の見所の一つにもなっている)

島全体は、もともと干潟であったところに、丸太を数万本打ち込み、その上に島を建設したのだから無理も無い。それにしても海水に打ち込んだ丸太が酸素に触れないとはいえ、この年月を持ちこたえているのには驚いた。島の建物の多くがレンガを用いているのも、建物を軽くし丸太への負荷を少なくしているからである。

寺院に隣接するドゥカーレ宮殿はヴェネチア共和国の総督の城であり、地中海の富をいかにしてヴェネチアへ集めるかを話し合った場であり、政治と裁きの場でもあった。金箔を施された化粧漆喰の壁に飾られたフレスコ画は各部屋にあり、美術の教科書の中に迷い込んだような錯覚を感じた。

サンマルコ広場

サンマルコ広場

サンマルコ寺院のモザイク

サンマルコ寺院のモザイク

ドゥカーレ宮殿内部のフレスコ画

ドゥカーレ宮殿内部のフレスコ画

8月3日(晴れ)

ベニス市庁舎ベランダから眺める運河

ベニス市庁舎ベランダから眺める運河

ベニス市長を囲んで。後方は「翼を持つ獅子」の像

ベニス市長を囲んで。後方は「翼を持つ獅子」の像

移動日なので、荷物をまとめ廊下へトランクを出してから朝食を取った。こちらへ着てから野菜らしい野菜を口にしていないので、サラダを探したがやはり無かった。

今日はベニス市庁舎への表敬訪問からであった。庁舎の玄関には、時代を感じさせるエンタシスの大理石の柱が私たちを迎えてくれた。中に入ると警備員がおり、簡単には入館させてもらえなかった。セキュリティはしっかりしているようだ。近代的な建物ではなく古い建物を大切にしてうまく使用していた。多少の不便はあるものの、モノを大切に使い切る文化がイタリアにはあるらしい。「石の文化」と、日本のような「木と紙の文化」との違いかもしれない。イタリアは有名デザイナーも多く輩出しブランドも多く、世界のファッション界をリードしている。アパレル産業の流行を作り出している国でありながら、流行に左右されない受け継がれた文化も大切にしていることに感銘した。

 

感性は長い時間をかけて醸成され、受け継がれていくものなのかもしれない。そういえばこちらへ来て口にしている、ワインも、プロシュート(生ハム)も、チーズも、バルサミコ(葡萄酢)もじっくりと時間をかけて美味しくなるまで寝かせている。私たち日本人は、刺身など生食を好むが、じっくりと仕込む文化の良さも見習うべきであろう。

待合室では随分待たされたが、なかなか市長の登場とはならなかった。添乗員はミラノへ向かう列車の時刻を気にしているようであった。

市長がようやく現れたが、待たせたことなどは全く気にもしない明るく饒舌な方であった。ベランダへ誘導し、ゴンドラの行きかう運河を見せ、風光明美な観光資源と観光客の多さを自慢していた。「自分は日本の女性が好きだから、今度来るときは奥さんを連れて来い」としきりに進める陽気な市長に見送られ、サンタルチア駅へ向かった。

特急は時刻どおりにミラノへ向け出発した。走り出した車窓からは、ヴェネチアの海が見えていたがすぐに重工業地帯に入った。ヴェネト州はイタリア第2位の工業生産を誇る地域だけあって工場が立ち並んでいた。工場地帯を過ぎると、トウモロコシ畑が続く、牧歌的風景が現れた。この州はワイン用の葡萄と、とうもろこしの生産はイタリア1位であると後で聞かされ納得をした。ミラノへは2時間半ほどかかるので、心地よい眠気に誘われ列車のシートに身をゆだねることにした。

ミラノ中央駅は以前に来たこともあるが、実に素晴らしい建築物である。駅自体が文化遺産といっていいほど美しい。ゆっくり眺めたかったが時間も無く、ジェトロミラノ事務所へ向かった。ミラノでは空前の日本食ブームが起きており、数十件ある日本レストランは大繁盛とのことであった。但し残念なのはそのほとんどの経営者は中国人であり、日本人の経営は2軒とのことだった。料理の美味さは知らないが商売の上手さは中国人のほうが一枚上らしい。しかし日本人としては、正真正銘の日本食を世界に発信する心意気が必要である。まだまだ日本文化は世界に知られていないことを、私たちは認識すべきだと思った。

予定では、ゴシック建築の代表格のドォーモの見学が組まれていたが研修に時間をとられキャンセルとなってしまった。ホテルで着替え、「あいち、なごやフェアinミラノ」レセプション会場へ移動した。

大村知事のあいさつから始まり、戦国武将隊や忍者のパフォーマンス、手羽先、豊川稲荷すしなどのB級グルメや西尾の抹茶のおもてなしなど、活気あるものであった。

ミラノ中央駅

ミラノ中央駅

「あいち、なごやフェアinミラノ」レセプション会場。武豊町長(左)、大村愛知県知事(中央)、町長(右)

「あいち、なごやフェアinミラノ」レセプション会場。武豊町長(左)、大村愛知県知事(中央)、町長(右)

8月4日(晴れ)

万博会場、日本館前で。後ろに見えるのは酒樽。

万博会場、日本館前で。後ろに見えるのは酒樽。

「あいち、なごやフェアーオープニングセレモニー」で大村愛知県知事、河村名古屋市長さんらと記念撮影

「あいち、なごやフェアーオープニングセレモニー」で大村愛知県知事、河村名古屋市長さんらと記念撮影

今日も暑くなりそうだ。最高気温は33度と予想されていた。

午前10時に入場口に着き列に並んだが、思ったほど待たされなかった。セキュリティチェックは空港並であった。万博会場は世界各国のパビリオンが参加しているのでテロの標的にされかねない。かなりの神経を使っているようだ。

会場内はすいており、まずは日本館へ向かった。便宜を図っていただいたようで、専属の方に誘導していただけた。今回の万博のテーマが「食」であったので、私の中での万博イメージとは少し違っていた。中学3年のときの大阪万博のイメージが焼きついている私にとっては、スケールが小さく感じられた。しかし今回の日本館は、洗練されていてクールに日本の文化を紹介していた。先ずは「ひらがなと墨と書」による「和の文化」を紹介し、米作りの農耕文化、そして箸を使う日本の食文化をITCと映像を駆使しながら、見学者に箸を使って参加させるなどの工夫をこらしていた。また、同時にスタッフの気遣いによる「おもてなし文化」をアピールできていたと思う。

知事の一行と見学した後、「あいち、なごやフェアーオープニングセレモニー」に参加した。「COCO壱番屋」の社長がカレーの食文化を紹介し始めたのには違和感があったが、ヨーロッパへの出店計画があり、意気込みは力強いものがあった。また、「サガミチェーン」も同じくヨーロッパ進出を考えているとのことで、かためのきしめんが振舞われた。大村知事も河村市長も上機嫌でセレモニーは盛況であった。

その後にドイツ館とイタリア館を視察した。ドイツ館では、食物の育てる大切さと環境問題をテーマとしているようであった。時間をかけて見学すると、テーマの重さが分かる内容であった。イタリア館は打って変わって、食文化というよりは、イタリアの世界遺産文化を紹介していた。その演出には驚いてしまった。展示室が、天井も壁も床も全面鏡ばりである。まるで万華鏡の中に入ってしまったような錯覚だ。色とりどりの鮮やかな映像が映し出されると部屋中がその映像に囲まれ奥行きの感覚も分からなくなり、まさに別の次元に降り立ったようであった。

隣のイタリアンワインパビリオンも面白かった。200種類ほどの銘柄があったであろうか。テイステイングができるのである。10ユーロ(1,400円)を払うと、ワイングラスとQRコードつきのカードが渡された。そのカードを展示されているワインの読み取り機にかざすと、ワインが注がれる仕組みだ。のども渇いており全員が入館したが、誰しも肝心なことに気づいていなかった。沢山の試飲ができると思い喜んでいたのだが、4杯めを試飲しようとしても出てこない。売り切れかと思い別のワインにグラスを持っていってもやはり出てこない。そこでチケットの小さな字を読むと、イタリア語の後に英語で「Buy your Wine Card valid for 3tasting」と書かれているではないか。そうであるなら銘柄を吟味して試飲すればよかったと悔やんだ。しかしよくよく考えてみたら、全部を試飲していたら酔いつぶれていただろうから・・・。

立ち疲れで足をひきずりながら万博会場を後にして、ホテルへと向かった。

8月5日(曇り)

トリノ市中央をゆったりと流れるポー川

トリノ市中央をゆったりと流れるポー川

バレンティノ公園

バレンティノ公園

今日は140キロ離れたトリノ市へ専用バスで向かった。

午前中にトリノ市庁舎公式訪問をし、「スローフード」についてレクチャーを受けた。この言葉はファーストフードに対して生まれたもので、イタリアから発信された考え方である。その土地の伝統的な食文化や食材を見直す運動で、地産地消の考えにも通ずるものである。もともとイタリア人は食事に時間をかけ、美味しい食事をし、ワインを飲みながら会話を楽しむ生活様式であった。この食文化圏に、ファーストフードのマクドナルドがローマに出店し、食生活に変化が生まれた。このことに危惧を感じた人たちがスローフードを唱え始めたのである。通訳の方が「EUに加盟後よい意味でのイタリアが失われた」と雑談の中で話していたが、食文化の変化もその一つであろう。

「おいしい」=地域の中で守られてきた味。「きれい」=環境にいい。「ただしい」=生産者に対して公正な評価の3つの視点がこの運動の核である。今後、世界の国々にとって食の確保と農業の問題は未来を左右する重大事になっていくことであろう。

 

レクチャーの後、女性の副市長から歓迎のあいさつとトリノの紹介を受けた。トリノは、イタリア王国が統一されたときの始めての首都であり、その後フィレンチェに遷都し、今はローマに首都は移されている。このまちに立派な建造物が多いのも、首都であった時代があったからであろう。イタリアの北西部に位置しアルプス山脈を越えればフランスのニースに通じる。ポー川がゆったりと流れており、川の周辺は美しいバレンティノ公園となり市民の憩いの場となっている。1858年に開催されたトリノ博覧会の会場になった場所で、バレンティノ城や中世の村が再現されている。イタリア王となったサヴォイア王家の王宮群は博物館や公的な施設となっているが、その栄華の址を今世紀まで伝えている国民性を称えなくてはならない。文化遺産を守るために、どれほどの予算を使っているのか質問したところ「国、州、県、市が懸命に行っているが、修復の対象が多すぎて予算が回らず苦慮している」とのことであった。

産業においてはフィアットなど自動車産業の本社を有するなど、人口90万人弱の工業都市でもある。移民も受け入れているが人口減少が進んでいるという。

トリノの町中で黒人をよく見かけたのはこのためであった。質問したところ人口の15%が移民であるという。13万人ほどの外国人がトリノに住まいしていることになる。このことによる諸問題があるようで詳しくは話されなかったが、副市長は眉間に皺を寄せていた。

イタリアは地中海を挟んでアフリカとごく近い位置にある。地球儀を持ち出して見てみるとヨーロッパからイタリア半島は北アフリカにむけて地中海に突き出している。「チュニジアなどから船を漕ぎ出せば、イタリアへ流れ着く」と話されたことがよく理解できた。また、トリノにはカイロのエジプト博物館に次ぐ規模の有名なエジプト博物館があるように、イタリアとエジプトは古代から深い関係にあった。イタリアをヨーロッパとしか見ていなかった、自分の浅学を恥じた。今後イタリアを知る上では、ギリシャ・ペルシャの文化圏やエジプト文化圏を含めた、アフリカ・地中海文化圏とヨーロッパ文化圏を考察していかねばならないと感じた。

市役所を出て、カステッロ広場(Piazza castello )へとバスは向かった。この広場にはユネスコ世界遺産に登録されている王宮(Palazzo Reale)とマダーマ宮殿がある。私たちの見学した王宮はサヴォイア王朝の公式な宮殿であり、歴代のメンバーが居住していたもので、大理石の巨大宮殿の素晴らしさはいうに及ばず、建物内の豪奢な調度品たるや圧巻である。世界中から集められたお宝が部屋毎に飾られ、いかにサヴォイア家の繁栄が偉大であったかを伝えている。

次に向かったのはサン・カルロ広場(Piazza San Carlo)である。ちなみにPiazzaとは公共的な広場のことである。aを抜けば大好物のPizza(ピザ)であるが、本場のピザを口にしていないことに移動中の車中で気付いた。明日帰国するので口にするチャンスは今夜しか残されていない。サン・カルロ広場も「トリノの応接間」と呼ばれているだけに、美しく配置がなされ実に調和のとれたPiazzaだった。1600年代前半に設計されたそうだが、日本では関ヶ原の戦いが終わり徳川幕府を開府したころにあたる。「双子の教会」と呼ばれる、サンタ・クリスチーナ教会とサン・カルロ教会が並んで建っている。広場中央には騎馬像があり広場を囲む建物は、昔は貴族の館であったが、現在はマンションとして使われアーケードにはショップが入り、市民の人通りも多い。有名なカフェテリア「Caffe San Carlo」で足を休めたが、ジャンドゥーヤなどのチョコレートはトリノが発祥の地と自慢していた。

1822年からのお店らしく、シャンデリアといい店の造りは宮殿のようであった。

歴史的な意味のある建物としてはカリニャーノ宮殿がある。外観はレンガ造りであり、今はイタリア統一博物館となっている。この宮殿は、イタリア統一後、初めて国会を開いた場所である。私たち首長の一行にとって行政の意思決定をする、議場や広間を見学して感じることがある。時代時代において、王や議員、行政執行官が、この場で口角泡を飛ばし激論しその国の進むべき道を決定していたと思うと、胸が熱くなるのである。やはり、議場は神聖なものである。今、建造中の阿久比町の庁舎も、議場は最上階に位置し、町民のためになる施策を決定する場として恥ずかしくないものにしたいと思っている。

イタリア視察最後の訪問地であったトリノは実に素晴らしかった。機会があれば長期滞在し、その歴史と美しい都市設計を学びたく思った。後ろ髪をひかれながらバスに乗りミラノのホテルへと向かった。

 

最後の夜は、ホテル近くのレストランで食事をとった。イタリア料理はフランス料理の基になったといわれるだけに、大変に美味だ。海産物も肉料理も豊富で味付けの基本は、バージンオイル、バルサミコ、トマトソースにチーズであるが、ワインも使われている。念願のピザも出され「ボーノ・ボーノ」と頬に指を押し当てた。生ハムの(プロシュート)は絶品で、赤ワインがことのほか進んだ。ホテルへの帰り道に、所どころの漆喰が剥げ落ち、古いレンガが顔をのぞかせている教会の前に出たが、夜のとばりが降りた後のまちの景色も落ち着かせるものだった。ネオンサインも少なく、旅人たちをやさしく包み込んでいた。心地よい酔いとともに深い眠りについた。

トリノ副市長を囲んで

トリノ副市長を囲んで

カステッロ広場から見た王宮

カステッロ広場から見た王宮

カフェテリアのシャンデリア

ヴェネチアガラスの大シャンデリア

大理石柱が立ち並ぶ宮殿内部

大理石柱が立ち並ぶ宮殿内部

カリニャーノ宮殿

カリニャーノ宮殿

8月6日(晴れ)

イタリア文化に驚嘆している間に、夏風邪も治ったようである。今朝の目覚めはスッキリしていた。現地時間の午前8時半にホテルをチェックアウトし、ミラノ空港へ向かった。

通勤時間帯なのか交通量は多い。車種はイタリア車をはじめフランス、ドイツ、日本車も多く走っているが、小型車が多い。路上駐車が多いので小さめの車体が好まれるのであろう。出国の搭乗手続きは入国と違いスムーズであった。来たときと同じくヘルシンキへ向けて午前11時25分発フィンランド航空AY794便でイタリアを後にした。

セントレアへの直行便があれば便利でよいのだが残念である。何事もポジティブ思考の私としては、ムーミンの故郷フィンランドへも寄れるなら、孫の土産を買おうと前向きにとらえた。ヘルシンキの空港に午後3時25分に着いたが大変な混雑であった。ムーミンショップを見つけたものの、人気ぶりはすごくレジも長蛇の列である。ぬいぐるみはかさ張るし、絵本も何語で書かれているかわからない。困り果てた末に買ったのがジグソーパズル。色もきれいであるしきっと喜ぶと思い、しばし好々爺の気分を味わった。

ここで大村知事と合流しFIN AY79便でセントレアへと帰国の途に就いた。眼下には、北欧特有のフィヨルドの地形がリアス式海岸を形成しており、高度があがるにつれ雲に包まれ小さくなっていった。そして良き思い出とともに私を夢の中へ誘っていった。

飛行機内から見た北欧特有のフィヨルドの地形

飛行機内から見た北欧特有のフィヨルドの地形

お問い合わせ

阿久比町役場町長の部屋

ご意見をお聞かせください

  • このページは役に立ちましたか?

  • このページは見つけやすかったですか?

(注意)お答えが必要なお問合せは、直接担当部署へお願いいたします(こちらではお受けできません)。


ページの先頭へ戻る

Copyright ⓒ AGUI TOWN 2010. All right reserved.