広報 あぐい
2010.05.01
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あぐいぶらり旅 
〜石造物を巡る(植・大古根コース 4)〜

シリーズ 阿久比を歩く 123

 



新美応助翁顕彰碑



経歴を紹介する立て看板

植地区の神明社を訪れる。2週間前に咲き誇っていた桜の花も散り、すっかり葉桜と変わる。それでも、残った花びらが1枚2枚と風に舞い、頭の上に落ちる。

「2週間前の花見もよかったですけど、新緑のまぶしさもたまりませんね」と友人が言う。「また、『お酒でもあったら』と言わないだろうね」と私が言葉を返す。「4月はたくさん飲む機会があったので、今日はジュースがいいです」。「その意見には同感だね。じゃあ後で飲もう」。

前回紹介した神明社裏の「端山忠左衛門氏彰徳碑」の後方に、「新美応助翁顕彰碑」が立つ。周りは樹木が茂り、日中でも薄暗いが、石碑には木漏れ日が差し込む。

『町文化財調査報告書』では、「1814死す。庄屋をつとめ人望厚くとくに山林の保護育成に熱心で、半田池東方一帯の官有地に、老松昼なお暗く、天を摩していた。盗伐を防ぐため昼夜を選ばず見回ったという」と碑文に記されると解説されるが、石碑にはそのような文字は見当たらない。

石碑の前に立てられた白色のボードの看板に、端山氏と新美氏の経歴が紹介される。

新美応助氏は山林保護に力を注いだ人物。端山氏は、その功績をたたえ、峠ケ峰に立派な“木碑”を建てた。木碑は時が経ち、腐朽してしまう。その後、村民らの手によって新美氏の遺徳を偲び、明治39(1906)年、現在の場所に“石碑”として生まれ変わる。

経歴の紹介から、前述の碑文は木碑に記されていたことが推測できる。

「山を守るとは、想像もつきませんよね」と友人が首をかしげる。「僕には務まらないだろうな」。「夜は怖いですからねぇ」。「そうじゃなくて、花粉がたくさん飛びそうだからだよ」。「本当ですか?」。それ以上会話は続けなかった。

境内の方から人の声が聞こえたので行ってみる。前日の祭礼の後片付けが行われていた。石碑について尋ねる。

「石碑が立っていることは知っているけど、その人のことはよく分からないね」。数人の男性が口をそろえる。「神明社の森、五郷社の権現山と立派な森が近くに残っているのは先人たちのお陰だろうね」と、言葉に力を込めた1人の男性は、森を見つめていた。



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