広報 あぐい
2007.03.15
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あぐいぶらり旅
 〜伝説の地を歩く(岡戸半蔵ゆかりの地)〜

シリーズ 阿久比を歩く 48

 


岡戸半蔵木像


「『半蔵さ、悪かったのう、一時に嫁さと子を亡くしてしまって』。
『ああ、長いこと子に恵まれなんで、待ちこがれておったに、()()も子も、いっしょに死んじまうとは……』。

福住の半蔵さんは、よくよく幸せの薄い星の下に生まれたものだと思いました。欲も徳もなくして、荒古の阿弥陀堂に涙のお(こも)りをする日が続きました。見かねた庄屋の義平さんは、そんなに1つ所に伏せ籠っておっては命を失ってしまう。妻子の菩提(ぼたい)を弔うために各地の寺々へお参りに出かけてはどうかとすすめてくれました。『阿久比の昔話 半蔵の発心』から」。

知多四国八十八カ所霊場三開山の1人、福住出身岡戸半蔵ゆかりの地を訪ねた。

岡戸半蔵は亡くなった妻子をとむらうために諸国巡礼の旅に出る。文政2(1819)年に古見(知多市)妙楽寺の亮山上人(りょうざんしょうにん)と出会う。

亮山から「文化6(1809)年、弘法大師が夢に現れ『知多の地に札所を開きなさい。協力者として2人の行者を遣わす』と告げられたことを機に、四国霊場を3度巡った」と聞かされる。半蔵はその話に感銘を受け、知多四国霊場を開くために亮山と行動を共にする。半蔵は弘法大師の木像などを造るために自分の家屋敷、田畑を売り払い資金を作る。

その後、讃岐(香川県)の武田安兵衛(たけだやすべえ)が加わり、3人で札所勧誘のため、知多半島の寺を巡る。文政7(1824)年に知多四国八十八カ所の制定を完了する。

弥生3月の暖かい陽ざしを受けながら、福住荒古の畑で土を耕すおばあさんがいたので声を掛けてみた。額にはうっすらと汗。年を聞くと78歳だという。「この辺りに岡戸半蔵が物思いにふけったと言われる阿弥陀堂がありましたか」と私たちが聞くと、県道を指差して「この道の少し北に行ったところにあってね、道を広げるときに無くなってしまったよ。私が子どものころは、毎月12日に村の人が集まり、大数珠を回しながら百万遍を唱えたんだよ。だんごを食べるのが毎回楽しみだったかな。半蔵さんの噂はその時によく聞きましたよ。そこにあった半蔵さんの像は興昌寺手前の堂に移ったよ」と話してくれた。

岡戸半蔵木像がまつられる知多四国第十四番札所、興昌寺行者堂の前に立つ。後ろから白装束の年配グループが近寄る。弘法参りをするために山門の石段を上って行く。友人が「皆さんが通り過ぎて行くときに半蔵さんが笑ったような気がしたんですよね。札所にみんなが来てくれることがうれしいからですかね」と話し掛ける。「君、なかなかうまいことを言うね。半蔵さんの苦労からすれば、きっとうれしくて涙も出るかもよ」と私が鼻をすすりながら答える。「もしかして、今の話で胸が熱くなったんですか」。「ううん。花粉症」。知多路の春は弘法参りで始まるというが、私の春は今年も花粉症から始まった。

「伝説の地を歩く」は今回で終了します。次回からは「阿久比の道を行く」を連載します。



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